川島靖弘の中学時代

小学6年生の3学期になると、友達との話題は、「中学に入学したら何部に入るか?」になると思います。

野球、サッカー、バレーボール、バスケは選択肢になく、テニス、卓球、アマチュア無線、部活に入らず柔道などを検討していました。

そんな時に、たまたま保健室でクラスメイトと中学の部活の話をしたところ、彼はテニス部に入ると言っており、なんとなくの流れで、テニス部に入ることを決定しました。

瑞穂中学校のテニス部はかなり強かった時代でしたが、男子の先輩は2年生に2名いるだけ。男子の新入部員は4名(後から1名入部)でした。今はどうだか知りませんが、当時の団体戦はダブルス3組で行う形のため、団体戦に出るには6名必要。全く経験なくても、試合出場が求められるという状況でした。

入部してすぐに、ルールを教わり、最低限試合ができる様な練習(下打ちサーブと、レシーブ)をして、入部した翌週には西多摩大会に出場していたと思います。

こんな感じで、試合に出場しましたが、当時のテニス部は部活が盛んな当時の瑞穂中学でも1,2を争うハードな部活。

部活の休みは、年2日。大みそかと元日のみ。

雨の日は練習はなくなりますが、部員は集まり勉強をします。

夏休みの前半は大会がなければ、学校で練習。しかし、12時から15時は気温が高いので、冷房の効いた部屋で給食を食べて夏休みの宿題。合宿中は朝練はなく、朝の勉強会と夜の勉強会がありました。当然昼間は練習や地元の学校との交流試合など。

成績の良い友人が進研ゼミをやっていたのを真似して、進研ゼミを始めていたので、雨の日学習では、進研ゼミをしていたこともあってか、家での学習はあまりしなくても成績はそれなりに上がっていきました。

そんな部活中心の中学生活をおくっておりましたが、中学2年生になり足の痛みが消えない状況が続き、痛みも強くなっていきました。

整形外科を受診したところ、股関節の病気である大腿骨頭すべり症と診断され、即入院が命じられ、手術を受けることになりました。

結果、半年の入院と術後1年半は車いすでの生活になりました。

私が入院した当時の整形外科病棟は20代ぐらいの人も何人か入院しており、入院期間も長めで元気なので、トランプや将棋を皆さんと仲良くやっていたので、割合楽しい入院生活を送っておりました。

毎日、瑞穂にある塾の先生が、2時間ほど勉強を教えに来てくれたことから、勉強に遅れるどころか、3年生の学習内容もどんどん進めるように学習していました。

3年生になり、父親の送迎で車いす登校をしていました。特別教室の授業はほとんど参加できなかったのですが、車いす対応の机を用意していただいたり、クラスメイトの協力で学校生活を送ることが出来ました。

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