一浪しましたが、希望の学部には入ることが出来ずに、北里大学衛生学部衛生技術学科に入学しました。
八高線で八王子まで行き、横浜線に乗り換え、相模原駅。
相模原駅からバスで40分ほどで大学に到着。ドアTOドアで1時間30分ちょっとだったと思います。
当時の北里大学は1年生はみな、相模原キャンパスで学び、人文社会学系の授業やゼミは全学部共通で、理系科目は学部学科ごとに異なるような授業形式だったと思います。
大学の授業でいうと、1年の時の人文系の授業やゼミが一番楽しかった気がします。2年生時以降の授業や多くの実習(実験)は基本苦痛でした。 → この辺りで進路を間違えた感満載です
部活は私の学科の先生が部長を務められている、衛生科学研究部を、授業が終わった際に勧められなぜかそのまま入部し、その後(特に2年生以降)は大学生活=部活またはその周辺みたいな生活になります。
部活も楽しかったのですが、部から学園祭の実行委員を人身御供の様に差し出されるのですが、1年生の私はそれに選ばれ、学園祭の実行委員に。
私の担当した企画が、人を回してもらえず、唯一来てくれた方が2年生の先輩で、その先輩の協力もありなんとか自分の企画を終えることが出来ます。
しかし、この手伝ってくれた2年生の先輩が、翌年、体育会系の部活の集まりである体育会の会長に選出。体育会の会長は球技大会の実行員会に選出されます。
学園祭の時の恩もある関係で、続けて球技大会の実行委員会に幹部として入ることになります。
学園祭の実行員会も、球技大会の実行委員会も本当に楽しいと思える場所で、ほぼ自宅に帰らない生活をしていました。母からは帰るときには連絡を欲しいと完全に、逆な状況。
学生生活はエンジョイしていましたが、先述のように専門課程に入り全く興味がなく、奇跡的に3年生にはなれましたが、4年生になれず、3年生をもう一度ということになります。
ここで大きな問題が発生します。
私は北里大学衛生学部衛生技術学科に入学したと、記しましたが、私たちは最後の衛生学部生。その後は組織改正があり衛生学部は医療衛生学部と理学部に分かれることになっていました。
3年生をもう一度やるにも衛生学部の3年生が下の学年にはないため、医療衛生学部の3年生になりました。しかし、カリキュラムが微妙に変わっていることがあり、結果的に4年生の時に1年生の教室に行き、履修する必要などが発生するなどが起きました。そもそも、噂では学部がなくなるから留年はないといわれていましたが、留年ありました。
4年生の指導いただいた先生に、「川島君は大学が大好きだけど、勉強は嫌いだね」と、いわれるほど、キャンパス内にいるけど勉強をしない生活をし、当然卒業にも黄色信号が点灯。
球技大会の実行委員をしている時の学生部の責任者の方が、異動して医療衛生学部の事務の偉い人になっていたこともあり、教授会で学部移動の特殊性などいろいろ説明してくれたこともあったのか、奇跡的に卒業できました。
就職活動の時期は、バブル崩壊直後。就職活動した年に山一證券破綻がありました。
でも、希望していた職種が店長職で、そのころ急激に伸びているチェーン店が色々あったこともあり、就職活動はほとんど全勝の今までの生涯の中で一番のイケイケの時期でした。
それが成り立ったのも、大学の目の前にあるマクドナルドでアルバイトをして、アルバイトの最高タイトルまで到達していたのが相当なプラスになったとは思います。また、このマクドナルドでの経験は、人生にとって大きな成功体験をもらえたと思います。
コメント